坊さんでよかった!

おもしろい、かっこいい、すごいよ仏教!

寺の掲示板

今月の掲示

2020年9月1日

「良い時は良い時なりに 悪い時は悪い時なりに」

 

f:id:saifukuji:20200902142603j:plain

 

調子が良い時も悪い時もしなければならない時がある。

 

法華経の写経を一枚。を日課にしている私ですが、日によっては深夜になることもある。

眠くて、紙を汚しそうになる時もある。

 

スラスラ書ける時もあれば、

手が震える時もある。力が入っていることは想像できるが、

その力がなかなか抜けない。

 

そういう時は、力を抜こうとせずに現状のまま。というよりは現状を受け入れて経を写す。

そういう時の方が、字の一画一画「線」そのものに集中しているようだ。

 

スラスラ行く時は、「線」よりも、「はらい」「とめ」「はね」に意識がいく。

 

調子が良い悪いに関わらず、現状の中でベストを尽くす工夫をすれば、そのどちらからも得るものはある。気付きとしては貴重なものなのです。

 

調子の良し悪しで左右されるのではなく、

良い時は良い時なりに、悪い時は悪い時なりに。少しでも成長に繋げていきたい。

 

合掌

 

寺の掲示板

今月の掲示

2020年8月1日

「伊達じゃない日々を送っているのです」

 

f:id:saifukuji:20200806204603j:plain

毎日毎日同じ事の繰り返し。それがどれだけ困難な事か。

自ら進んで取り組んでいる事なのか。

お仕事としてなのか。

人と比べてどうだとか。

内容がどうだとか。

当たり前の事など何一つない世の中で、お一人お一人の毎日はやはり伊達ではないのです。

 

先日、永平寺に拝登してきました。私もかつて修行をさせていただいた場所。

その頃と違い、

かつての修行僧が現代の修行僧への評価としてよく聞くのは・・・

「みんな優しくて親切」

「目つきの鋭い修行僧はいない」など。

 

要は、厳しさという面では昔に比べて劣っているという評価が多いのです。

しかし、

修行内容は私の頃と何ら変わることはない。

起床、洗面、坐禅、朝課、小食から始まる永平寺の日々は面々と受け継がれているのです。

 

永平寺で修行を終えた皆様、その後いかがお過ごしでしょうか?」

などと、問われれば・・・

彼らは評価に左右されない世界で日々を過ごしています。それで十分なのです。

 

彼らの立ち振る舞いから、私は自分の足元を見つめます。

永平寺に行くたびに、修行僧から気付かされることは多いのです。

 

なぜなら、彼らは日々は伊達ではないから。

 

合掌

 

 

 

 

 

 

寺の掲示板 

今月の掲示

2020年7月1日

 

「 足の裏で歩く 」

 

f:id:saifukuji:20200703110035j:plain

 日常において、無意識に歩くということは足腰の健康を意味しています。目的地に向かう際に右を出して、左を出して。などとは考える必要はない。

ところが、

足の不自由な方に伺えば、「右をしっかり出して、体重を乗せて、左をしっかり出して、体重を乗せて」と意識しなければバランスを崩すそうです。誰かに挨拶でもされるようなら、意識が足に向かずバランスを崩しそうになったこともあるようです。

 

思えば、幼子が掴まり立ちを始める頃は尻餅をつくことも多く、その場で立つだけでもバランスが必要なことは一目瞭然です。

だからこそ「初めての一歩」に誰もが感動するのです。

 

動きに「当たり前のことなど何一つない」「慣れているだけ」

 

さて、坐禅を長時間していると足の感覚が無くなる事が多くあります。

いわゆる「足がしびれた」状態です。その足のしびれを取るために、

というよりは、血流を戻すために「 経行 きんひん 」と言われる歩きが坐禅の合間に入ります。

 

経行の作法「宝慶記」より

坐禅より起ちて歩く時は、須らく一息半趺の法を行ずべし」

「歩を移さんと欲はば、先ず右の足を移し、左の足乃ち次ぐべし」

 

簡単に申せば、吐いて〜 吸って〜 で半足進む。というものです。

 

呼吸と運足とバランスを感じながら体全体で歩きます。

少々難しい歩きになりますが、体と脳は刺激を受けていると個人的には感じています。

 

携帯を見ながら歩く。考え事をしながら歩く。いろんな歩きがある中で、

 

「歩くことに集中して歩く」ことは本来の歩くという動きそのものへの畏敬の念を抱く事なのです。

 

足裏の感覚を感じて歩く。とても大事なことだと思います。

合掌

寺の掲示板 

今月の掲示

2020年6月1日

「ことばは おしみ おしみ 言うべし」 良寛和尚の戒語

f:id:saifukuji:20200602133121j:plain

言葉巧み。言葉足らず。言葉に余る。言葉が過ぎる。言葉が尖る。

ひとつの言葉で人を救い、ひとつの言葉で命を奪う事もある。

 

無論、言葉は人の心そのものであるので、良寛和尚は、自他に関わらず人間全体の「心」を整えることの一つとして言葉の在り方を大事にされたのでしょう。

 

良寛和尚の戒語の中には

口のはやき。

問わす語り。

さして口。

親切らしく物いう。

押のつよき。

息もつきあはせすものいう。などなど・・・

 

現代人にも当てはまることを考えれば、昔も今も人間そのものはそれほど変化はしていないのかもしれません。

 

言わなければ伝わらない事もあるが、なんでも言えばいいということでも無い。昔より「三度考え直してから言え」という言葉があるように、相手にとって投げかけていい言葉なのかどうかを少し立ち止まり、考える時間が必要なのです。

 

ただし、考える主体が私であるのことを思えば、相手を思えど、考え語ることは実に難しいことですね。

 

和尚である以上、衣を着て皆様の前で話す時もありますので、良寛和尚の戒語の内のひとつでも見習いたいと思う。

 

最後に、良寛和尚の戒語を肝に命じながら

「さとりくさき咄」良寛

合掌

寺の掲示板

今月の掲示

2020年5月1日

「最も恐るるべきことは 心が荒むことである」

 

世の中は上手くいかない事だらけ。

損得・勝負けの世の中にあって「損よりも得」「負けよりも勝ち」が良しとされる流れは確かに大きく存在します。

 

人と人が密接に関係性を有している社会ですので、勿論、会社でも、学校でも、スポーツ界でも、年齢性別、フィールドに関係なくどこにでも存在します。

 

私が子供の頃は「日本昔ばなし」が放送されていました。楽しみに観ていたのを覚えています。この中のお話でよくあるのが、正直者のお爺さんとお婆さん。と、それとは反対の性格を有するお爺さんとお婆さんのストーリーです。

 

例えば「笠地蔵」のお話なんかはそうですね。

小欲知足で正直に生きる事の大切さを解いているお話です。

 

時に、

損を選ぶことは、歯をくいしばる程の忍耐を必要とします。

負けを認めることは、涙が溢れる程の屈辱を味わいます。

でも、それでいいのです。

 

心が「安心」であるためには、「得・勝」の関係性を断ち切る力を持たなくてはなりません。

 

「得よりも損」「勝ちよりも負け」の中にこそ「心の安心」はあります。

一方で

ーどうせ私なんか損ばかりー

ーどうせ私なんか負けばかりー という思いを抱いてはいけません。

 

私の大好きなアニメになりますが、「一休さん」はいつもこう言っています。

「慌てない 慌てない 一休み 一休み」

「慌てる」とは心が荒むと書きますね。

世の中は上手く出来ていますので大丈夫です。

 

例えば自分の心が荒まぬように動きを止めて、体の呼吸に合わせ坐禅する。

今、必要なのはそのような心のコントロールなのです。

合掌

 

f:id:saifukuji:20200506181310j:plain

 

お袈裟から学ぶ

西福寺におけるお袈裟を縫う集いは「福田会」と名ずけています。

 

今は女性がひとり参加してくれていますが、

布を裁断し、ひと針ひと針と縫いつなげていく作業の中、失敗も色々あります。

中々覚えられない事もあります。

 

私もありました。何度も何度もありました。でも、どんな失敗が起きようとも必ず対処法はあります。気持ちの浮き沈みがある中でも、ひと針ひと針進めて行くしかありません。

 

例えば、裁断した布同士を、重ね合わせて縫うときには躾を施します。丁寧に進めようとすると「ピシッ」と躾を施しますが、仕上がりは上手くいきません。縫いチジミが発生しますので。仕上がりに歪みが生じます。

 

コツは躾にほんの少し「遊び」を持たせます。コツは経験により得るものです。

躾にほんの少し遊びを持たせることで仕上がりは決まってきます。

 

「躾」は必要ですが、完璧なのは返ってダメなのですね。家庭での親子も行き詰まったときに、経験豊かな先輩からのアドバイスや大きな心に気持ちが軽くなったりします。

 

「大丈夫、誰でもそうよ」なんて言われればどれだけ救われるでしょう。

 

躾には「遊び・ゆとり」が必要なのです。

 

失敗し、悩み、考え、相談し、教えもらい、学ぶこと。

お袈裟を縫うことを継続する上で学んだことです。

 

合掌

寺の掲示板

2020年4月1日 今月の掲示

f:id:saifukuji:20200417214007j:plain

「あなたひとりが輝けばそれでいいのです」

 

自分ひとりが輝くとは、独りよがりでも、身勝手でもありません。

 

誰もが全てと関係性を有しています。自他一如です。

 

他とは全てであり、全ての中には私も含まれているので完全な自他一如なのです。私とあなたではなく、私はあなたで、あなたは私と言えばいいでしょう。

 

例えば、私一人で山中に迷い込んだとしましょう。日が落ちて周りは音ひとつない世界。

何とかしなくては、と彷徨っていると、遠くに家の灯らしきものが見えます。

 

その瞬間に、私の中には安心と希望が生まれるのです。家の住人は迷った私のために灯りをともしたのではありません。自身のために必要だから灯りを灯していたのです。

強い光だろうが、微かな灯りをだろうが、その物に輝きがあれば本人の知らないところで誰かが救われているのです。

 

誰かのためでも、自分のためでもいいのです。私自身が輝ける日々を送ろう! と皆が思ってくれれば素晴らしい世界になります。

 

そのような世界を願いながら、今月の掲示

「あなたひとりが輝けばそれでいいのです」

 

合掌