坊さんでよかった!

おもしろい、かっこいい、すごいよ仏教!

寺の掲示板

今月の掲示板 2020年11月1日

「時が至れば芽吹き 時が至れば散る」

 

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大自然とは、実に淡々として在る。

 

境内に推定樹齢250年のクスノキが植わっている。

子供の頃は木登りもした。夕方にはスズメが集い鳴き声にあふれ、夏にはセミが鳴き、成長の過程で出来たの穴にハトが卵を産み、蛇が木登りをして卵を狙う。剪定のために木に登る祖父に「危ないから降りろ」という父の会話も幼少の頃の記憶にある。思い出の沢山あるいわば寺のシンボルツリーだ。

 

その大木も、内部が腐りスポンジ状の箇所がある。幹の半分は樹皮が浮き始め、枝には葉もつかない。専門家に寄れば、倒木による二次災害の可能性もあるので切り倒した方が良いのでは。という助言もいただいた。

 

大自然と向きあうことでいつも感じることがある。

「目の前の景色は常に流れの中にあり自由だ」と。

 

時の流れに任せて、芽吹く時は芽吹き、散る時は散る。

人知れず山中にて倒木の老樹もあれば、手入れを受けながら樹齢何百年の観光名所の老樹もある。誰の目に写るか否かに問わず、その樹木自体はその身を任せるだけなのだろう。

 

時が至れば芽吹き、時が至れば散る。

境内の老樹に触れて、つい口に出る言葉がある。

「お前、すごいなぁ」

 

合掌

 

 

寺の掲示板

今月の掲示板 2020年10月1日

「自分を大きく見せない努力が必要です」

 

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何かと渦巻く世の中にあって、自分を保つことは容易なことではありません。

 

嫌いな人と会わなくてはならない・・

嫌なことでもしなくてはならない・・

 

人間関係において「損得、勝ち負け、駆け引き」の中では

自分を大きく見せたり・・・

小さく見せたり・・・

 

自分に言い聞かせながら、自分を誤魔化しながら、なんとかクリアしながらの日々ですが、そのストレスは相当なものです。

 

私の好きな噺家柳家小三治さんにこんな話がある。

 

小三治ほどの名人でも、時に観客の期待に押しつぶされそうになることがある。
毎年恒例となっている池袋の8月寄席。今年の猛暑の中も会場には、毎日長蛇の列ができていた。観客の期待をひしひしと感じると、「この人たちを何とか喜ばせたい、笑わせたい」という思いが頭をもたげてしまいがちになる。
しかし、うけようという気持ちは、「笑わせない芸」を目指す小三治にとって邪魔になる。
心が揺れる時、小三治は「小さく小さく」と自らにつぶやく。
芸が大げさに、派手にならないように。芸から無駄をそぎ落とすように、小三治は常に自らの気持ちと戦っている。

NHKウェブサイトプロフェッショナル仕事の流儀より抜粋ー

 

どのような人物でも経験と苦悩の末に得た自分の整え方というものがあります。

私の場合は坐禅

坐禅は人間の思惑の桁が外れた世界に坐ること。だと今は感じています。

今は・・・

 

激動、激流の世にあって、「漂流」しないようにと懸命な日々にあって、少しの時間でも構わない、勇気を出して「私」は何もしないで心閑かにじっと坐るというのも自分を整える一つの方法ではないかな。

 

いい意味で誰もが「楽」に生きることができればと願っています。

合掌

 

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今月の掲示

2020年9月1日

「良い時は良い時なりに 悪い時は悪い時なりに」

 

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調子が良い時も悪い時もしなければならない時がある。

 

法華経の写経を一枚。を日課にしている私ですが、日によっては深夜になることもある。

眠くて、紙を汚しそうになる時もある。

 

スラスラ書ける時もあれば、

手が震える時もある。力が入っていることは想像できるが、

その力がなかなか抜けない。

 

そういう時は、力を抜こうとせずに現状のまま。というよりは現状を受け入れて経を写す。

そういう時の方が、字の一画一画「線」そのものに集中しているようだ。

 

スラスラ行く時は、「線」よりも、「はらい」「とめ」「はね」に意識がいく。

 

調子が良い悪いに関わらず、現状の中でベストを尽くす工夫をすれば、そのどちらからも得るものはある。気付きとしては貴重なものなのです。

 

調子の良し悪しで左右されるのではなく、

良い時は良い時なりに、悪い時は悪い時なりに。少しでも成長に繋げていきたい。

 

合掌

 

寺の掲示板

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2020年8月1日

「伊達じゃない日々を送っているのです」

 

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毎日毎日同じ事の繰り返し。それがどれだけ困難な事か。

自ら進んで取り組んでいる事なのか。

お仕事としてなのか。

人と比べてどうだとか。

内容がどうだとか。

当たり前の事など何一つない世の中で、お一人お一人の毎日はやはり伊達ではないのです。

 

先日、永平寺に拝登してきました。私もかつて修行をさせていただいた場所。

その頃と違い、

かつての修行僧が現代の修行僧への評価としてよく聞くのは・・・

「みんな優しくて親切」

「目つきの鋭い修行僧はいない」など。

 

要は、厳しさという面では昔に比べて劣っているという評価が多いのです。

しかし、

修行内容は私の頃と何ら変わることはない。

起床、洗面、坐禅、朝課、小食から始まる永平寺の日々は面々と受け継がれているのです。

 

永平寺で修行を終えた皆様、その後いかがお過ごしでしょうか?」

などと、問われれば・・・

彼らは評価に左右されない世界で日々を過ごしています。それで十分なのです。

 

彼らの立ち振る舞いから、私は自分の足元を見つめます。

永平寺に行くたびに、修行僧から気付かされることは多いのです。

 

なぜなら、彼らは日々は伊達ではないから。

 

合掌

 

 

 

 

 

 

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2020年7月1日

 

「 足の裏で歩く 」

 

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 日常において、無意識に歩くということは足腰の健康を意味しています。目的地に向かう際に右を出して、左を出して。などとは考える必要はない。

ところが、

足の不自由な方に伺えば、「右をしっかり出して、体重を乗せて、左をしっかり出して、体重を乗せて」と意識しなければバランスを崩すそうです。誰かに挨拶でもされるようなら、意識が足に向かずバランスを崩しそうになったこともあるようです。

 

思えば、幼子が掴まり立ちを始める頃は尻餅をつくことも多く、その場で立つだけでもバランスが必要なことは一目瞭然です。

だからこそ「初めての一歩」に誰もが感動するのです。

 

動きに「当たり前のことなど何一つない」「慣れているだけ」

 

さて、坐禅を長時間していると足の感覚が無くなる事が多くあります。

いわゆる「足がしびれた」状態です。その足のしびれを取るために、

というよりは、血流を戻すために「 経行 きんひん 」と言われる歩きが坐禅の合間に入ります。

 

経行の作法「宝慶記」より

坐禅より起ちて歩く時は、須らく一息半趺の法を行ずべし」

「歩を移さんと欲はば、先ず右の足を移し、左の足乃ち次ぐべし」

 

簡単に申せば、吐いて〜 吸って〜 で半足進む。というものです。

 

呼吸と運足とバランスを感じながら体全体で歩きます。

少々難しい歩きになりますが、体と脳は刺激を受けていると個人的には感じています。

 

携帯を見ながら歩く。考え事をしながら歩く。いろんな歩きがある中で、

 

「歩くことに集中して歩く」ことは本来の歩くという動きそのものへの畏敬の念を抱く事なのです。

 

足裏の感覚を感じて歩く。とても大事なことだと思います。

合掌

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今月の掲示

2020年6月1日

「ことばは おしみ おしみ 言うべし」 良寛和尚の戒語

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言葉巧み。言葉足らず。言葉に余る。言葉が過ぎる。言葉が尖る。

ひとつの言葉で人を救い、ひとつの言葉で命を奪う事もある。

 

無論、言葉は人の心そのものであるので、良寛和尚は、自他に関わらず人間全体の「心」を整えることの一つとして言葉の在り方を大事にされたのでしょう。

 

良寛和尚の戒語の中には

口のはやき。

問わす語り。

さして口。

親切らしく物いう。

押のつよき。

息もつきあはせすものいう。などなど・・・

 

現代人にも当てはまることを考えれば、昔も今も人間そのものはそれほど変化はしていないのかもしれません。

 

言わなければ伝わらない事もあるが、なんでも言えばいいということでも無い。昔より「三度考え直してから言え」という言葉があるように、相手にとって投げかけていい言葉なのかどうかを少し立ち止まり、考える時間が必要なのです。

 

ただし、考える主体が私であるのことを思えば、相手を思えど、考え語ることは実に難しいことですね。

 

和尚である以上、衣を着て皆様の前で話す時もありますので、良寛和尚の戒語の内のひとつでも見習いたいと思う。

 

最後に、良寛和尚の戒語を肝に命じながら

「さとりくさき咄」良寛

合掌

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今月の掲示

2020年5月1日

「最も恐るるべきことは 心が荒むことである」

 

世の中は上手くいかない事だらけ。

損得・勝負けの世の中にあって「損よりも得」「負けよりも勝ち」が良しとされる流れは確かに大きく存在します。

 

人と人が密接に関係性を有している社会ですので、勿論、会社でも、学校でも、スポーツ界でも、年齢性別、フィールドに関係なくどこにでも存在します。

 

私が子供の頃は「日本昔ばなし」が放送されていました。楽しみに観ていたのを覚えています。この中のお話でよくあるのが、正直者のお爺さんとお婆さん。と、それとは反対の性格を有するお爺さんとお婆さんのストーリーです。

 

例えば「笠地蔵」のお話なんかはそうですね。

小欲知足で正直に生きる事の大切さを解いているお話です。

 

時に、

損を選ぶことは、歯をくいしばる程の忍耐を必要とします。

負けを認めることは、涙が溢れる程の屈辱を味わいます。

でも、それでいいのです。

 

心が「安心」であるためには、「得・勝」の関係性を断ち切る力を持たなくてはなりません。

 

「得よりも損」「勝ちよりも負け」の中にこそ「心の安心」はあります。

一方で

ーどうせ私なんか損ばかりー

ーどうせ私なんか負けばかりー という思いを抱いてはいけません。

 

私の大好きなアニメになりますが、「一休さん」はいつもこう言っています。

「慌てない 慌てない 一休み 一休み」

「慌てる」とは心が荒むと書きますね。

世の中は上手く出来ていますので大丈夫です。

 

例えば自分の心が荒まぬように動きを止めて、体の呼吸に合わせ坐禅する。

今、必要なのはそのような心のコントロールなのです。

合掌

 

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