坊さんでよかった!

おもしろい、かっこいい、すごいよ仏教!

寺の掲示板

今月の掲示

2021年1月3日 

「修行とは嫌なことを あなたがあなたの力で 丁寧に行うことです」

 

f:id:saifukuji:20210106225645j:plain

 

「なんで私がこんな事を・・・」

「私のやりたいことはあれであって、これではない・・」

でも、

やるからには、修行の域まで持ってこないと。

 

子どもが小さい頃、ディズニーランドに一緒に行きました。素晴らしいところです。

何度も行きたくなるまさに夢の国でした。

 

なにが素晴らしいか。それはキャストです。

いわゆるスタッフの振る舞いの素晴らしさでした。

 

定期的にシンデレラ城をバックに、メインステージではショウが行われます。大変人気のショウの場合見ることができません。でも、その裏側がありました。

 

ステージの真裏、ショウも見れず観客の姿もない本当の真裏でキャストが等間隔に並び、ランド内を歩く私たちに笑顔で手を振り続けていました。

 

ショウが繰り広げられている間、見られない私たち、言わば通行人にこんな事までするのかと衝撃を受けた事を覚えています。

 

どの世界も、どんなお仕事にも花形があれば裏方があります。そのどちらにも「楽しい事」と「楽しくない事」があるはず。

 

今いる場所で努力できない人は、憧れの場所でも努力はできません。

今いる場所で輝きを放つ人は、憧れの場所でも同じく輝くものです。

 

今いる場所で、他でもない、自分が自分の持てる力で丁寧に取り組む事がいかに大切か。そういう意味ではディズニーのキャストは修行者ですね。

 

とても大事な事だと思います。

合掌

 

 

 

寺の掲示板

今月の掲示

2020年12月1日

「うん うん そうか そうか」

f:id:saifukuji:20201201113912j:plain


 「うん うん そうか そうか」とは便利な言葉だ。

喜怒哀楽、悲喜交々。いかなる時にでも、その時々に応じて意味を変える。

人が使う場合は・・・

ところが、

仏様が発するときは、便利な言葉などではない。意味合いはひとつ。

どこまでいっても衆生を救う言葉なのです。

良寛さまの歌に、

墨染の わが衣手の ゆたならば うき世の民を 覆はましものを

という歌があります。

私は思う。良寛さまは、ご自身に民を救う財も力もない事は承知の上。非力を知りながらもただ寄り添って少しでも力になれる事はないだろうか・・・と。

「うん うん そうか そうか」という言葉を」胸に。

 

仏様の眼差し・・・

仏様の言葉・・・

 

仏様に向きあえば、救われることがある。その他にもテレビ、ラジオから聞こえる言葉や音楽。大自然の風景や鳥の声。家族や友人の言葉などにも人は救われる。

突然やってくる救いの手を感じれば感じるほど、

やっぱり私たちは気付かないけれど、仏の世界にいるのだと思う。

合掌

 

 

寺の掲示板

今月の掲示板 2020年11月1日

「時が至れば芽吹き 時が至れば散る」

 

f:id:saifukuji:20201101144306j:plain

 

大自然とは、実に淡々として在る。

 

境内に推定樹齢250年のクスノキが植わっている。

子供の頃は木登りもした。夕方にはスズメが集い鳴き声にあふれ、夏にはセミが鳴き、成長の過程で出来たの穴にハトが卵を産み、蛇が木登りをして卵を狙う。剪定のために木に登る祖父に「危ないから降りろ」という父の会話も幼少の頃の記憶にある。思い出の沢山あるいわば寺のシンボルツリーだ。

 

その大木も、内部が腐りスポンジ状の箇所がある。幹の半分は樹皮が浮き始め、枝には葉もつかない。専門家に寄れば、倒木による二次災害の可能性もあるので切り倒した方が良いのでは。という助言もいただいた。

 

大自然と向きあうことでいつも感じることがある。

「目の前の景色は常に流れの中にあり自由だ」と。

 

時の流れに任せて、芽吹く時は芽吹き、散る時は散る。

人知れず山中にて倒木の老樹もあれば、手入れを受けながら樹齢何百年の観光名所の老樹もある。誰の目に写るか否かに問わず、その樹木自体はその身を任せるだけなのだろう。

 

時が至れば芽吹き、時が至れば散る。

境内の老樹に触れて、つい口に出る言葉がある。

「お前、すごいなぁ」

 

合掌

 

 

寺の掲示板

今月の掲示板 2020年10月1日

「自分を大きく見せない努力が必要です」

 

f:id:saifukuji:20201001110316j:plain

何かと渦巻く世の中にあって、自分を保つことは容易なことではありません。

 

嫌いな人と会わなくてはならない・・

嫌なことでもしなくてはならない・・

 

人間関係において「損得、勝ち負け、駆け引き」の中では

自分を大きく見せたり・・・

小さく見せたり・・・

 

自分に言い聞かせながら、自分を誤魔化しながら、なんとかクリアしながらの日々ですが、そのストレスは相当なものです。

 

私の好きな噺家柳家小三治さんにこんな話がある。

 

小三治ほどの名人でも、時に観客の期待に押しつぶされそうになることがある。
毎年恒例となっている池袋の8月寄席。今年の猛暑の中も会場には、毎日長蛇の列ができていた。観客の期待をひしひしと感じると、「この人たちを何とか喜ばせたい、笑わせたい」という思いが頭をもたげてしまいがちになる。
しかし、うけようという気持ちは、「笑わせない芸」を目指す小三治にとって邪魔になる。
心が揺れる時、小三治は「小さく小さく」と自らにつぶやく。
芸が大げさに、派手にならないように。芸から無駄をそぎ落とすように、小三治は常に自らの気持ちと戦っている。

NHKウェブサイトプロフェッショナル仕事の流儀より抜粋ー

 

どのような人物でも経験と苦悩の末に得た自分の整え方というものがあります。

私の場合は坐禅

坐禅は人間の思惑の桁が外れた世界に坐ること。だと今は感じています。

今は・・・

 

激動、激流の世にあって、「漂流」しないようにと懸命な日々にあって、少しの時間でも構わない、勇気を出して「私」は何もしないで心閑かにじっと坐るというのも自分を整える一つの方法ではないかな。

 

いい意味で誰もが「楽」に生きることができればと願っています。

合掌

 

寺の掲示板

今月の掲示

2020年9月1日

「良い時は良い時なりに 悪い時は悪い時なりに」

 

f:id:saifukuji:20200902142603j:plain

 

調子が良い時も悪い時もしなければならない時がある。

 

法華経の写経を一枚。を日課にしている私ですが、日によっては深夜になることもある。

眠くて、紙を汚しそうになる時もある。

 

スラスラ書ける時もあれば、

手が震える時もある。力が入っていることは想像できるが、

その力がなかなか抜けない。

 

そういう時は、力を抜こうとせずに現状のまま。というよりは現状を受け入れて経を写す。

そういう時の方が、字の一画一画「線」そのものに集中しているようだ。

 

スラスラ行く時は、「線」よりも、「はらい」「とめ」「はね」に意識がいく。

 

調子が良い悪いに関わらず、現状の中でベストを尽くす工夫をすれば、そのどちらからも得るものはある。気付きとしては貴重なものなのです。

 

調子の良し悪しで左右されるのではなく、

良い時は良い時なりに、悪い時は悪い時なりに。少しでも成長に繋げていきたい。

 

合掌

 

寺の掲示板

今月の掲示

2020年8月1日

「伊達じゃない日々を送っているのです」

 

f:id:saifukuji:20200806204603j:plain

毎日毎日同じ事の繰り返し。それがどれだけ困難な事か。

自ら進んで取り組んでいる事なのか。

お仕事としてなのか。

人と比べてどうだとか。

内容がどうだとか。

当たり前の事など何一つない世の中で、お一人お一人の毎日はやはり伊達ではないのです。

 

先日、永平寺に拝登してきました。私もかつて修行をさせていただいた場所。

その頃と違い、

かつての修行僧が現代の修行僧への評価としてよく聞くのは・・・

「みんな優しくて親切」

「目つきの鋭い修行僧はいない」など。

 

要は、厳しさという面では昔に比べて劣っているという評価が多いのです。

しかし、

修行内容は私の頃と何ら変わることはない。

起床、洗面、坐禅、朝課、小食から始まる永平寺の日々は面々と受け継がれているのです。

 

永平寺で修行を終えた皆様、その後いかがお過ごしでしょうか?」

などと、問われれば・・・

彼らは評価に左右されない世界で日々を過ごしています。それで十分なのです。

 

彼らの立ち振る舞いから、私は自分の足元を見つめます。

永平寺に行くたびに、修行僧から気付かされることは多いのです。

 

なぜなら、彼らは日々は伊達ではないから。

 

合掌

 

 

 

 

 

 

寺の掲示板 

今月の掲示

2020年7月1日

 

「 足の裏で歩く 」

 

f:id:saifukuji:20200703110035j:plain

 日常において、無意識に歩くということは足腰の健康を意味しています。目的地に向かう際に右を出して、左を出して。などとは考える必要はない。

ところが、

足の不自由な方に伺えば、「右をしっかり出して、体重を乗せて、左をしっかり出して、体重を乗せて」と意識しなければバランスを崩すそうです。誰かに挨拶でもされるようなら、意識が足に向かずバランスを崩しそうになったこともあるようです。

 

思えば、幼子が掴まり立ちを始める頃は尻餅をつくことも多く、その場で立つだけでもバランスが必要なことは一目瞭然です。

だからこそ「初めての一歩」に誰もが感動するのです。

 

動きに「当たり前のことなど何一つない」「慣れているだけ」

 

さて、坐禅を長時間していると足の感覚が無くなる事が多くあります。

いわゆる「足がしびれた」状態です。その足のしびれを取るために、

というよりは、血流を戻すために「 経行 きんひん 」と言われる歩きが坐禅の合間に入ります。

 

経行の作法「宝慶記」より

坐禅より起ちて歩く時は、須らく一息半趺の法を行ずべし」

「歩を移さんと欲はば、先ず右の足を移し、左の足乃ち次ぐべし」

 

簡単に申せば、吐いて〜 吸って〜 で半足進む。というものです。

 

呼吸と運足とバランスを感じながら体全体で歩きます。

少々難しい歩きになりますが、体と脳は刺激を受けていると個人的には感じています。

 

携帯を見ながら歩く。考え事をしながら歩く。いろんな歩きがある中で、

 

「歩くことに集中して歩く」ことは本来の歩くという動きそのものへの畏敬の念を抱く事なのです。

 

足裏の感覚を感じて歩く。とても大事なことだと思います。

合掌