坊さんでよかった!

おもしろい、かっこいい、すごいよ仏教!

涅槃会

2020年2月15日

2月15日はお釈迦様入滅の日。かねてより予定していました涅槃会を行じます。

涅槃会

・法要 

・お話(涅槃図をもとにお話)

・入棺体験

 

参加してくれた皆様の関心は入棺体験。近くの葬儀社よりお借りした棺に交代で入ることに。

 

 元気なうちに自分で入ってみませんか?さあ、どなたか?では、私から。

 

ー 自分で入って自分で出てくる姿が何とも面白い ー

 

このような体験を企画した訳は、10年以上前に私が入棺体験をしたからです。

初めはどんな感じなのか、どんな感想を抱くのか。正直少し不安がありました。

 

初めて入ってみてどうだったか?(私の場合)

・程よい狭さが心地よく、寝心地も枕の質も良好。

・棺を取り巻く人々の顔が弧をえがき私を見つめている。

・その顔が一様に笑顔である。

・同じ空間にいながら、別世界観を味わえた。

・棺からの景色を知ることが死への恐怖軽減の一助になると確信する。

 

さて、皆様はどうかというと、

・携帯持参で入棺している自身の写真をお互いに撮り合う。

・棺の中からの景色を携帯で撮る。

・寝ながら、手を組む。合掌する。

・皆一様に笑顔である。

・入って良かったと口々に述べる。

 

入棺体験に関して、参加者のご家族の中には、ご本人に「やめてよ」という言葉をかけられた方もいたようです。(心からではありませんが、気持ちは理解できますよね)

 

ー 命あるもの必ず死す ー

ー 形あるもの必ず壊れる ー

 

まず、そこにしっかり目を向けることで、今後の方向性が明らかになって行くものです。

 

見なくてもいい物事に常に関心を寄せ。

見なくてはならない物事に無関心のまま過ごす。

 

この逆転は現代社会の在りようだと感じています。

 

何に目を向けるかが大事なことです。

合掌

 

 

 

 

報恩摂心

2020年2月13日〜15日

報恩摂心を行じました。

 

お釈迦様の入滅にあたる2月15日。その徳を偲び、恩に報いんが為に摂心を行じました。12月の臘八に比べて3日間と短く設定。

1回40分とし、

朝の部は3回

3:50起床

4:20坐禅

5:10坐禅

6:00坐禅

 

夜の部は2回

19:00坐禅

20:00坐禅

 

今回は摂心前日の12日から何やら寒気がしまして、体も少しだるい感じがしましたが、本堂での月例のストレッチ教室を行い。午後からは学童野球の指導にと忙しく、

早く休んで翌日に備えようと決めていましたが、その夜に学童野球の監督から「大会前に1度コーチ陣が集まって情報を共有しましょう!」とのお誘い。

寝不足のまま、翌朝の摂心に突入。

 

「寒い、ゾクゾクする・・・」体調は戻らぬまま始まった摂心。

 

薄手の毛布を頭からかぶり坐禅をすることにしました。(まるで達磨さまのよう)

これまでにも体調が悪いのを感じたままの坐禅は幾度もあります。その中でも忘れられない感覚があります。

 

ー 体内で風邪の根本が消滅する瞬間 ー 

 

表現を変えるとこんな感じです↓↓↓

入浴剤の「バブ」が風邪のウイルスとします。シュワシュワと次第に小さくなっていき消滅する瞬間の感じです。

体から寒気が抜けた瞬間を感じました。医学的にはそんなことないのかも知れませんが忘れられない経験です。

 

話はそれましたが、自分の体調とは関係なく参禅者は足を運んでくれました。有難いことです。

私よりも年配の方々が同じ時間に同じ回数を坐る姿に励まされ無事終えることになりました。

翌日の16日は朝から雨、喉の調子も良くない。日曜日でしたが法事もなく1日、ゴロゴロ、起きては読書。その繰り返しでのんびり、ダラダラ過ごさせていただきました。

合掌

 

 

寺の掲示板

2020年2月1日今月の掲示

 

「修行が足りん」

 

急いでいるとイライラすることがある。

褒められれば有頂天になる。

貶されれば、相手を見下す。

人には優しく、自分には甘い・・・

言い出せばきりがない。とは私自身の姿です。

 

永平寺で修行してきました。仏典・祖録を読んでいます。

坐禅をし、托鉢をし、掃除をし、説法もする。そんな私の姿なのです。

 

これまでの修行が「全く身についていない」と思うこともしばしば。

しっかりしなければと言い聞かす毎日です。

 

一方で、これまでと違う思いもあります。

「仏教ってすごいな」「仏教って常に新しくて面白い」という思いです。

だからますます「修行が足りん」と思います。

 

修行で大切なことは、続けることです。

続ければいいという事に甘えていてはダメですけど。

続ける事で気付く事もあるのです。

 

修行を続ける上でのポイントは「誠実である」こと。

 

法に対して誠実。

行いに対して誠実。

人に対して誠実。

↑↑↑↑↑ 恥ずかしながら誠実ではありませんでした。と言うよりも

そこまで考えた事はなかったのです。

 

今後は自分なりに「誠実な修行」を心がけて進みたいと思っています。

 

                      合掌

 

 

 

大寒寒中托鉢しました。

2020年1月20日

 

今日は「大寒」予定していた寒中托鉢の日。

今日は暖かい。風もない。さすがは和歌山。

 

朝の9時に本堂にてお勤めをしてから出発。

 

「ナームー ダーイーオーン キョーシュー ホンーシー シャーカームーニーブツーダーイーオーショー」

 

「ナームー シンータンーショーソー ボーダーイーダールーマー ダーイーオーショー」

 

「ナームー エーイーヘーイー ドーゲーンダーイーオーショー」

 

「ナームー ケーイーザーンー ジョーキーンダーイーオーショー」

 

「仏法興隆 世界平和 国土安穏 万法和楽 諸縁吉祥」

 

三国伝燈。 

大恩教主本師釈迦牟尼仏大和尚。

震旦初祖菩提達磨大和尚。

永平道元大和尚。

瑩山紹瑾大和尚。

 

仏法を伝え守って下さった祖師方の徳が今も世界中に届きますように念じ。

 

繰り返し唱えながら托鉢を続けていると、途中、足を止めて、時には車を止めて浄財を喜捨していただきました。

 

仏名よ世界に届け!鈴の音よ世界に響け!願いよ叶え!の3時間。

 

寺に戻り、お勤めをし、念入りに洗足して終了。

 

托鉢をするといつも思うことがあります。感謝への対象が多くなること。

 

出会う人はもちろん。足や草鞋や公園のベンチ、公衆トイレに至るまで・・

ありがたいことです。

 

心身ともに充実・健康の托鉢でした。  合掌

寺の掲示板

2020年1月今月の掲示

 

「 私の嫌いなあの人もどこかで誰かの

             生きる力になっているのだ 」

 

お寺に入ったばかりの頃、近所の方とコミュニケーションを取ろうと必死でした。

年配の方が多く、小さな子どもは週末に遊びにくるくらい。

 

その子どもたちと一緒に遊ぶのも楽しい日々でした。

 

しかしその中に、よく物を壊す少年がいました。

 

少年は境内の桜の枝を折る。土塀を石で削る・・などなど

 

彼は週末になると、寺の近くのおばあちゃんに会いにくるのです。そして、寺にやってきては、いわゆる「いらないことばかり」を悪びれることなくする子でした。

 

おばあちゃんは、引越しのアルバイトをするほど、元気でパワフル。しかしある日、軽い脳梗塞を起こし、入院。退院後は歩行練習の散歩の日々。

 

その傍らにいたのが少年でした。

 

ある日、私はおばあちゃんの散歩に出くわし、おしゃべり・・

そしておばあちゃんは嬉しそうに言いました。

 

「あの子(少年)は本当に優しい子でね。見舞いに来てくれるし、よく手伝いもしてくれる。あの子は私にとっての生きがいなんよ。またあの子を車に乗せて遊びに連れて行きたいから、頑張って元気にならな」

 

何かと壊されたり、後片付けをしたり、注意してきたけれど、私の目には見えない綺麗なものをおばあちゃんに見せてもらいました。

                       合掌

 

 

 

 

お袈裟を縫う②

私にお袈裟を教えてくれたのは、愛知県一宮市 常宿寺の岡本光文師でした。

またお袈裟を通じて、本当に色んな事を教えてくれました。

 

光文師は当時、奈良県大淀町 蟹宮庵にて開催されていたお袈裟の会に先生として来られておりました。そこで私は、光文師のご指導のもと、七条割截衣というお袈裟を作り始める事になりました。

 

お袈裟の作り方をまとめた紙を見ながら、とにかく初めての事。言われるがままに計算をし、布に線を引き、ハサミで裁断し、パーツを繋ぎ合わせていく作業が始まりました。

 

奈良県に通う事4、5回だったと思います。奈良でのお袈裟の会は休止になりました。

理由は ー 光文師ご自身のお寺の普請が始まるので忙しくなるから ー でした。

 

落ち着いたら連絡があるとの事でしたので、そのまま待つ事になりました。

勿論、私のお袈裟はまだまだはじめの段階で、まち針が付いた状態のまま。

 

ところが連絡がないまま3年近く経ちました。私の方から連絡を入れなかったのは、私自身それほど熱心ではなかったからです。このままで終わっても別に・・・と行った感じでした。

 

でも、正直気にはなっていました。布は放ったらかしのままですが、「袈裟の研究」を読んだり、光文師から頂いた説明書に目を通したり・・。それほど熱心ではなかったけれども、興味は消えていなかったのだと思います。

 

そしてこの時、新しく出会った本によりまた少し変化が起こり始めます。

大法輪閣『「正法眼蔵 袈裟功徳」を読む』水野弥穂子 著がそうです。

 

読み進めていく中で、私の心を強く揺さぶったのは、

お袈裟の衣材としての布であれば、その布はすでに仏さまである。という意味合いの言葉でした。

 

「このまま仏さまを放ったらかしにしてはダメだ」と思い、本を読むのを止め、すぐに風呂敷を開いたことを覚えています。

 

そこには少し錆びついた待ち針が刺さったままのお袈裟の姿がありました。

 

完成させなければという思いが強くなる中、私は常宿寺へ電話をかけるべく受話器をつかんでいました。

 

続きはまた

 

 

臘八摂心(Rouhatsu Session)終えました。

2019年12月1日〜8日までの臘八摂心は無事終わりました。

摂心を始めて今年で2回目。坐禅会に来られている方々に案内をしたのは初めてでした。

1日は日曜日ということもあって朝の4:20開始の坐禅に合わせてお2人が参禅に来られました。そのあと、5:00にはもうひとり。

正直なところ驚きました。案内をしておきながら「本当に来てくれた」と内心。

しかもその内のお1人は夜の部の7;00からの坐禅にもこられました。

 

「すごい!」のひと言です。

 

期間中は、夜にこられる方がいましたが、平日はほぼ1人での摂心。いつ誰が来てもいいように準備はしていました。

 

今回の摂心は精神的には非常に心地よく。「1日に1回だけでは少ない」と日々の坐禅を思い返すほどでした。そう思えたのは、修行中の摂心に比べて肉体的に楽なことも理由のひとつです。1日に5回を7日間。8日は朝の6時の1回だけ。合わせて36回の坐禅を終えました。

 

私には坐禅をする上で忘れられない言葉があります。永平寺で修行中、故 宮崎奕保禅師が暁天坐禅(朝起きて初めての坐禅)中に発せられた、

 

「暁天の一坐は仏祖の命脈なり」 というお言葉です。

 

当時は、薄暗く、緊張感に支配された僧堂で、唸るような声で発せられた言葉は、

どこか言葉の響きにガツンと打たれたのだと思います。朝の一坐は気持ちいのは事実ですので、やはり「暁天坐禅は大事にしないと」という気持ちで過ごしていたことを覚えています。

 

今になって思うことは、

坐禅する人は誰もがただちに仏祖である」  ということです。

 

坐禅が初めての人も、

何十年も続けている人も、

坐禅をすれば皆仏祖なのです。

 

宮崎禅師のお言葉は、共に坐る若い雲水さんに対して、

 

「歴代の仏祖が行じてこられた坐禅を行じているあなた方もまた仏祖なのだ」

と教えられたのだと思えてなりません。

 

摂心に参加してくれた方々もまた仏祖であったと思います。

このことが私が感じる「ありがたい」の思いの核なのだと思っています。

                        合掌