坊さんでよかった!

おもしろい、かっこいい、すごいよ仏教!

臘八摂心(Rouhatsu Session)終えました。

2019年12月1日〜8日までの臘八摂心は無事終わりました。

摂心を始めて今年で2回目。坐禅会に来られている方々に案内をしたのは初めてでした。

1日は日曜日ということもあって朝の4:20開始の坐禅に合わせてお2人が参禅に来られました。そのあと、5:00にはもうひとり。

正直なところ驚きました。案内をしておきながら「本当に来てくれた」と内心。

しかもその内のお1人は夜の部の7;00からの坐禅にもこられました。

 

「すごい!」のひと言です。

 

期間中は、夜にこられる方がいましたが、平日はほぼ1人での摂心。いつ誰が来てもいいように準備はしていました。

 

今回の摂心は精神的には非常に心地よく。「1日に1回だけでは少ない」と日々の坐禅を思い返すほどでした。そう思えたのは、修行中の摂心に比べて肉体的に楽なことも理由のひとつです。1日に5回を7日間。8日は朝の6時の1回だけ。合わせて36回の坐禅を終えました。

 

私には坐禅をする上で忘れられない言葉があります。永平寺で修行中、故 宮崎奕保禅師が暁天坐禅(朝起きて初めての坐禅)中に発せられた、

 

「暁天の一坐は仏祖の命脈なり」 というお言葉です。

 

当時は、薄暗く、緊張感に支配された僧堂で、唸るような声で発せられた言葉は、

どこか言葉の響きにガツンと打たれたのだと思います。朝の一坐は気持ちいのは事実ですので、やはり「暁天坐禅は大事にしないと」という気持ちで過ごしていたことを覚えています。

 

今になって思うことは、

坐禅する人は誰もがただちに仏祖である」  ということです。

 

坐禅が初めての人も、

何十年も続けている人も、

坐禅をすれば皆仏祖なのです。

 

宮崎禅師のお言葉は、共に坐る若い雲水さんに対して、

 

「歴代の仏祖が行じてこられた坐禅を行じているあなた方もまた仏祖なのだ」

と教えられたのだと思えてなりません。

 

摂心に参加してくれた方々もまた仏祖であったと思います。

このことが私が感じる「ありがたい」の思いの核なのだと思っています。

                        合掌